CGという技術の進化によって、現実には撮れないものが撮れるようになったことは「映画を変革するCG技術」の回で言及したが、少し違った観点で「技術の進化が物語に新しい演出を持ち込んだ」ことも述べておきたい。
前編でも言及した携帯電話は、映画の物語だけでなく、演出面にも新しい風を吹き込んでいる。スマホ全盛期の今と違って、1990年代後半からゼロ年代前半の携帯電話は折りたたみ式が多かった。そのため、「電話がかかってくる→取り上げて“カシャッ”と開く→通話する→通話を終え“カシャッ”と閉じる」という一連の動作に、役者の感情表現をこめられるようになったのだ。
待ちわびた連絡がやっと来たのなら、急いで電話を握って勢いよく「カシャッ!」と開く。悪い報せだった場合、ため息混じりに「カシャ……」と静かに閉じる、など。それは、映画でタバコを吸う動作そのものが芝居となりうるのと同じだ。私見だが、携帯電話を小道具としてもっとも効果的に演出へと取り入れていたのは、1990年代後半からゼロ年代前半にかけての韓国映画だったように思う。
時代によってIT機器が小道具としての意味を変えていく、という側面もある。1990年代半ばくらいまでであれば、ノートPCを操る暗い男が画面に登場した瞬間、彼は「天才ハッカー」確定だった。2000年代初頭くらいまでなら、ノートPCは「スーパービジネスマン」か「オタク」のアイコンだった。今や、オフィスではどんなダメ社員でもノートPCを開いているし、自室でノートPCを開く女子高生とて、珍しくない。
SNSのUIをそのまま画面に持ち込む演出も増えてきた。Twitter(っぽい画面)やFacebook(っぽい)画面やLINE(っぽい画面)に入力される文字列で入力者の感情を伝える手法は、もはや普通である。
こんなケースもある。超低予算ながら世界的にヒットした1999年のアメリカ映画『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』は、フェイクドキュメンタリー(ドキュメンタリー風に仕上げたフィクション)の形をとったスリラーだが、全編を通じて「行方不明になった学生たちが撮影した動画を、のちに編集して映画にした」という作りになっている。これはすなわち「ハンディタイプのビデオカメラが、学生たちにも手に入る価格で普及した」という背景があって、はじめて成立する物語だ。
本作の公開は1999年だが、その15年前の1984年にこのような物語は生まれない。個人がビデオカメラを所有するほど、カメラは安価でも軽量でもなかったからだ。ソニーが「パスポートサイズ」と銘打った8ミリビデオカメラ「CCD-TR55」を発売して大ヒットさせたのは、1989年のことである。