ディープラーニングをはじめとする、機械学習などの人工知能 (AI) 関連の技術のこの数年の発展はめざましく、現在も毎日のように新たな成果や応用が登場している。「AIが人間のプロ棋士に勝つことは将棋よりも格段に難しいであろう」と言われていた囲碁でも、瞬く間に状況はひっくり返ってしまった。
ひと昔前ならばまだまだ「絵空事」感の強かった「AIが人間を超えたらどうなる?」という話も、現実味を帯びて語られるようになってきた。
身近なところでは、人間と同じようにテキストや音声で応対する対話エージェントの完成度も上がり、日常生活に浸透しはじめている。今回は、AIと人間のつきあい方、特に知的なシステムとしての AIがもたらすUXを考えてみたい。
AIとそうでない計算機システム
現在は 、"AI" が流行りすぎてしまっているために、単に「コンピュータを使った」のと変わらない意味で「AIを使った」というフレーズが使われているのではないかというような例も増えている (この辺りの「"AI" という言葉がもたらす UX」についても後述したい)。
元々は、数値計算をこなしたり単純なコマンドに応答したりするだけでなく、人間の知能と同じような複雑な判断をできるような (あるいはできることを目指した)システムを指して使われる言葉である。
最近では "AI" というと特に、人間が一から十までプログラミングするのではなく、大量のデータからコンピュータが自力で学習 (機械学習) して各種の適切な判断やアクションを行えるようになるシステムを指して使われる。
音声もしくは文字入出力による自然言語で応対できるシステムというイメージもあると思うが、そうしたシステムも多くは、データからコンピュータが自力で学習している部分が含まれている。
作成する側から見ると、プログラムとして表現するのが難しい微妙な場合分けなどを、サンプルデータを用意することで自動的に行なってくれるのが AIである。
「コンピュータのような」とか「機械的な」という言い方は「決まったことしかできない」という意味合いの揶揄(やゆ)に使われることもあるが、機械学習を用いた AIは、その「決まったこと」の中の柔軟性がすさまじく高い。
裏を返すと、難しい場合分けをどういう基準で行っているのか、などが分かりづらい(規模が大きくなるほど理解の困難度が増す)ので、AIを使ったシステムはブラックボックス度合いが大きい。
「なぜそう判断したのか」が分からないのもさることながら、「正しく判断されているのかどうか」を保証することすら困難である。将来的にはそれも技術で解決するかもしれないが、現状では良くも悪くも「信用するしかない」部分が生じてしまう。