より多く、より速く、より遠くにというメディアの常識の裏側
人間と「情報」との関係を考えるということは、不可避的に「メディア」を考えることでもある。何を媒介にして自分の意思を他者に伝達するのか……。つまりはコミュニケーションの手段に何を用いるのかということである。
「メディア」は往々にして人間が発明する「テクノロジ」に依存するから、人間の進化と共にソフトウェア的な「メディア」もハードウェア的な「メディア」も、格納できる情報の容量、情報を送信する速度、情報を波及させる範囲を“基本的に”増大/加速/拡張させてきた(こうした「テクノロジ」と「メディア」の緊密な関係については、筆者の著書『メディア、編集、テクノロジー』を参照していただければ幸いである)。
この2月に刊行された筆者の著書『メディア、編集、テクノロジー』(クロスメディア・パブリッシング)。ウェアラブル・コンピューティングや人工知能、ビッグデータといった技術的なトピックから、デジタル社会における情報過剰供給問題、オリジナルとコピー、実名と匿名、生産消費者の台頭、地域創生とクラウドファンディングなど、幅広い事象を通して人間と情報、人間と技術、人間と文化を“編集的視点”から考察した論考集
例えば人間が駆使する最大のソフトウェア的な「メディア」である言語はまず「話し言葉」として誕生し、人称の区別や時制の区分などを発達させながら含意できる情報の量を増やしてきた。
やがて「書き言葉」が発明されることによって石や粘土板、パピルス、羊皮紙、紙などのハードウェア的な「メディア」に記憶や記録を刻みまたは記し、新たに空間的な拡散性と時間的な保存性を得た。
「メディア」は大別すると「記録メディア」と「通信メディア」に分類することができるけれども、携行可能な「記録メディア」はある意味で人間の移動と共に伝播する「通信メディア」と考えることもできる。
サミュエル・モールスによる「電信」、アレクサンダー・グラハム・ベルによる「電話」、グリエルモ・マルコーニによる「無線」といった19世紀の電気による通信機器の登場を待たずとも、リアルタイムではない「通信メディア」は存在したと考えていい。
さらに言ってしまえば、「トーキングドラム」や「狼煙」はほとんどタイムラグのない原始的な「通信メディア」として機能していた。
一方、現代のデジタル技術を用いたさまざまなリアルタイムの「通信」は、同時に何らかの「メディア」への「記録」が必ずといっていいほど付帯している。
そうした意味で「メディア」は常に複層的に折り重なり、いくつもの「メディア」が混ざり合いながら私たちの情報環境を形成していると言っていいだろう。