三国大洋のスクラップブック

『マネーボール』か『1984』か--ビッグデータとフィットネストラッカーの倫理 - (page 3)

三国大洋

2014-11-24 08:00

『マネーボール』が『1984』に変わりつつあるNBAの現状

 ここで、この種のデータ活用が進み始めている、潜在的な問題の芽が蒔かれ始めている北米プロバスケットボールリーグ(NBA)の例を紹介する。「高給取りが揃ったプロアスリート」の世界というとかなり特殊な分野という印象を持たれるかもしれないが、事業全体が営利活動であり、チーム=オーナーと選手との間に「雇用−被雇用」の関係があり、その労使間に契約や査定がある、といった点は一般の企業の場合とそう変わらない。

 NBAは、他の人気プロスポーツと比べても新たな技術の導入に積極的という印象がある。テクノロジ分野で財を成したオーナーが、全30チームの約3分の1を占めていることも関係しているのかもしれない(IT業界出身オーナーの最古参はPaul Allen、そして一番の新入りはSteve Ballmer)。

 他の競技やリーグとの比較を実際にしてみたことはまだないが、たとえば最もよく採り上げられている「SportVU」という画像データ収集解析技術はすでに数年前から使われており、昨シーズンからはこれが全チームの本拠地で導入されている。

 もともとはイスラエルで軍事用(ミサイル認識のため)に開発されたという、この画像記録解析技術を使うことで、コート上で起こっているすべての動きが把握でき、またそのデータを解析すると、たとえばある選手の1試合あたりの平均移動距離やその速度などから始まって、位置別のシュート本数や成功率、特定の時間帯での“勝負強さ”を示すシュート確率、さらには個別のプレイがもつ価値まで割り出すことも可能なところまできているという。

 毎試合ごとに生み出される膨大なデータが各チームでどの程度まで生かされるようになっているかという話を具体的に記した記事は、あいにくとまだ目にしたことはないが、各チームともそうしたデータを――人材と道具立てさえ揃えられれば、という前提付きで――活用できる状態になっていることは間違いない。

 コート上で集められるデータの相対的な優位性が薄れれば、それ以外のデータにアドバンテージを求めたくなるのは自然な流れで、NBAでは現在そうしたコート外(職場以外)での選手のデータを集める動きも進んでいるという。

 10月上旬に出ていたESPNの特集記事には、そうした動きの具体的な例として、Jawboneの「UP」――市販品のリストバンドを一部の選手に配布して、睡眠に関する習慣をモニターしているというGolden State Warriorsの取り組みから、胴体に貼り付けるセンサ――「パッチ(patch)」と呼ばれているという――を支給、着用させている複数のチームの取り組みまで、さまざまなものが挙げられている。

 このパッチに関する説明の部分には、それを使って把握できるものとして、睡眠の習慣(就寝と起床時間や睡眠中の眠りの深さといったことだろう)のほか、皮膚の温度、身体の位置(就寝中の体勢のことか)、心拍数の変化、などが上げられている。

 より具体的に「夜の何時にベッドに入ったか」「いつ心拍数が上昇したか」「心拍数上昇の原因がアルコールの摂取だった場合、いつ酔っ払って意識を失ったか」といったことまでチームが把握できるようになっているという。さらに、こうしたものと血液検査や尿検査の結果を組み合わせて利用しようとしているチームもあるという。

 選手としても、こうしたデータ活用が自分のコート上でのパフォーマンス向上やケガの予防、選手寿命の延長などに役立つと聞けば、積極的に導入してみたくもなるだろう。その点ではチーム=雇用主側と選手=従業員側の利害は一致しているといえる(ちなみに各チームがケガで泣いた選手に支払うコストは1シーズン平均1000万ドル、といった数字も紹介されている)。

 ただし、そうした取り組みが別の意図を持ったものに容易に転じる可能性――たとえば、もともと「パフォーマンスの向上」を狙って始められたデータ収集が、やがて「何らかのリスクに身をさらしてはいけない」あるいは「チームの恥になるような行為をしてはいけない」といった行動制約の目的に使われ得る可能性があることも同時に指摘されている。

 ケガの原因となる疲労度を知る手段については、Catapultという豪企業の製品(GPS付きのウェアラブル端末)が今年春から一部のチームで導入されているとある。

新たに手にする利便性とトレードオフ

 上記の警鐘を鳴らしている専門家――ニューヨーク大学(NYU)のSports & Societyという講座の責任者である医師のArthur Caplanは「雇用主が従業員の私生活をのぞき込もうとする流れが大きくなっており、NBAでの動きもその一部(“It's part of a growing trend of employers trying to take a peek into personal lives”)」とコメントしている。別の部分には、南カリフォルニア大学(USC)のCenter for Body Computingで責任者を務める医師のLeslie Saxonの「NBAは生体情報(バイオメトリクス)に関する大変革で社会をリードしている(“NBA is leading society into the biometric revolution”)」とのコメントもある。

 これらの発言の前提にあるのは、現在NBAで起こっているのと同様の流れがいずれ社会全体にも拡がる可能性がある、あるいはNBAがそうした新たな動きを試す一種の実験室となっている、ということだろう。

 NBAのこうした取り組みは、現時点では選手側の自発的な協力のもとに実施されているものの、それが雇用主側からの事実上の強制に変わり得るリスクというのも指摘されている。チームの花形(集客力の源泉)である人気選手なら、いやなことにはきっぱり「ノー」と言えるだろうが、“ベンチ入りできるかどうかの瀬戸際”といった弱い立場にある選手の場合はたとえ不本意であってもノーとは言いにくいだろう……といった指摘で、それと同じことは一般の職場にも当てはまるかと思える。

 また、NBAにはある程度の交渉力=影響力を持つ選手組合(NBPAという団体)があり、このNBPAが2017年に予定される次の労使交渉でこのデータ収集プライバシーの問題を争点のひとつとして採り上げる姿勢を示しているというが、そうしたレバレッジ(交渉の手段)を持たない労働者の場合も、やはり雇用者側からの不本意な要請を断りづらくなるのではないだろうか。

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