IT×芸術論:芸術を通してITの未来を考える

夏目漱石の文学作品から人工知能と意識の問題を考える

高橋幸治

2018-09-02 07:00

文学的な完成度については意外に「?」な文豪・夏目漱石

 前回、英国のLaurence Sterneによる18世紀の小説『トリストラム・シャンディ』とハイパーリンクの無限連鎖性について論及した。そこで、同作品を物語構造のモデルとした『吾輩は猫である』を引き合いに出した。今回はその著者である夏目漱石について書いてみたい。漱石についてはいまさらあれこれと述べるまでもないと思うが、国民作家とあがめられ紙幣の肖像にまでなった作家にしては、案外、“完璧に磨き上げられた一分の隙もない作品”というものが数えるほどしかない。

 上述した『吾輩は猫である』は起承転結のあるストーリー性を持たない断片の寄せ集めのようなものだし、『虞美人草』では前半と後半で文体がまるっきり変化してしまうし、『門』は適当に付けたタイトルに帳尻を合わせるために主人公が唐突に参禅することになるし、『こころ』の先生の長大な手紙はどう考えても封筒になど入らないし、『明暗』は著者の死によっていよいよこれからというところで絶筆となってしまうし……。

 他にも、漱石の多くの作品には矛盾や破綻が少なからず見受けられる。名作とうたわれる中長編において文学的な完成度に文句の付けようがないのは初期の傑作『草枕』、前期三部作を成す『三四郎』『それから』、養父との確執に材を取った『道草』くらいなものではないか。にもかかわらず、漱石の作品はどれも面白い。もはや明治の風俗や慣習、価値観や美意識をほとんどイメージできなくなっている現代の私たちが読んでも、ついつい引き付けられてしまうのは一体なぜなのだろうか。

 おそらく、漱石の作品には時代が移ろっても変わらない人間の思考の有様や感覚の様相、意識の形態などが入念に描き込まれているからではないか。漱石は小説家であると同時に思想家であり哲学者である。従って人間の意識に映ずる世界の描写において、彼の記述と表現には独特のものがあり、明治という時代にありがちな自我や自己への過剰な執着とは一線を画する非常に鋭利な心の洞察があるように思う。まずは前期三部作の中編となる『それから』(新潮文庫)の最後の場面を見てみよう。

 たちまち赤い郵便筒が目についた。するとその赤い色がたちまち代助の頭の中に飛び込んで、くるくる回転しはじめた。傘屋の看板に、赤い蝙蝠傘を四つ重ねて高くつるしてあった。傘の色が、また代助の頭の中に飛び込んで、くるくると渦をまいた。四つ角に、大きい真っ赤な風船玉を売ってるものがあった。電車が急に角を曲がるとき、風船玉は追っかけて来て、代助の頭に飛びついた。小包郵便を載せた赤い車がはっと電車とすれちがうとき、また代助の頭の中に吸い込まれた。煙草屋の暖簾が赤かった。売出しの旗も赤かった。電柱が赤かった。赤ペンキの看板がそれから、それへと続いた。しまいには世の中が真っ赤になった。そうして、代助の頭を中心としてくるりくるりと炎の息を吹いて回転した。代助は自分の頭が焼けつきるまで電車に乗って行こうと決心した。

『三四郎』『門』とともに「前期三部作」を成す『それから』(新潮文庫)。1985年、森田芳光監督、松田優作主演で映画化もされている(キネマ旬報日本映画ベストテン第1位)
『三四郎』『門』とともに「前期三部作」を成す『それから』(新潮文庫)。1985年、森田芳光監督、松田優作主演で映画化もされている(キネマ旬報日本映画ベストテン第1位)

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