中国の南シナ海における石油掘削の活動を巡り、ベトナムと中国の応酬が始まり、ついにはベトナムでは死者まで出る事態となってしまいました。まずは、国籍を問わず、亡くなった方々のご冥福をお祈りいたします。また、被害に遭われた方々にお見舞い申し上げます。
今回は、ベトナムでビジネスをする上で現在最も耳目を集めている話題の一つであるベトナムと中国の南シナ海での衝突について考えてみたいと思います。ただし、ここではベトナムでビジネスを行う日本人ビジネスマンの参考となるよう、可能な限り中立に、かつ、ベトナム人の友人からよく聞かされるエピソードをご紹介します。
また、私個人や所属する組織を代弁し、政治的な意思表明や主張を行う意思は全くないことをあらかじめお断りしておきます。
ベトナムは「伝説」の時代から中国の影響を受けている
ベトナムの建国譚についてご存じでしょうか。西暦2010年に「ハノイ建都1000年祭」が大々的に執り行われたので記憶に残っている方もいらっしゃると思いますが、1000年前の西暦1010年に何があったかを知っている方は多くはないでしょう。
ベトナム建国の人物は、ハノイ建都の西暦1010年よりも前に「雄王」という人物が存在したとされています。旧暦の3月10日が命日と言われており、この日は、現在でもベトナムの祝祭日に指定されています。ただし、伝説上の人物でもあるようなので、日本神話に登場する神武天皇と同じ位置付けなのでしょう。
この雄王後、西暦1010年頃までは長らく北部ベトナムを中心に中国の隷属下にあったようです。これが1010年頃の李朝成立により、初のベトナム人による民族王朝が誕生し、首都を現在のハノイにしたと言われています。そのため、西暦2010年はハノイ建都1000年として大々的に祝われたのです。
もともと漢字が使われていた
中国の影響下であった名残は、今でもすぐに見つけることができます。ハノイは「河内」。ハノイのすぐ傍を流れるホン河は「紅河」。ハノイの美称の一つであるタンロンは「昇龍」。世界遺産にもなっているハロン湾は「降龍湾」となります。それもそのはずで、ベトナム語は現在でこそアルファベット表記ですが、これはフランス統治時代の「クオック・グー政策(国語政策)」によって転写されたもので、ベトナムではもともと漢字が使用されていたのです。
また、ハノイにある「文廟」という場所は、今から1000年ほど前に勉学の神様として孔子を祀り、高等教育機関として機能していたところです。結婚式の時には「喜喜」という漢字を掲げてお祝いし、最後には爆竹を鳴らすところからも、中国の影響を見ることができます(ただし、最近は代わりに風船を割って音を出します)。
しかしベトナム側からみると、これらの文化の流入は文化交流の結果としてではなく、中国支配の結果という捉え方になります。事実、ベトナムの街中には中国と戦った英雄の名前が数多く存在します。ハノイ市の中心部にあるホアンキエム湖には大亀が住むという伝説がありますが、この大亀は時の英雄に中国軍を撃退するための神剣を授けたことで有名です。
この英雄の名はレ・ロイと言い、ハノイのみならずベトナム各都市の通りの名前によく付けられる名前でもあります。また、モンゴル軍を撃退した将軍、チャン・フン・ダオ。中国のベトナム支配に反旗を翻し「ベトナムのジャンヌダルク」とも言われるハイ・バー・チュン(チュン姉妹)。
ベトナムの反乱指導者であったバー・チュウ(チュウ夫人)。その他にも、リー・トゥン・キエット、ファン・グー・ラオなどの名前が有名ですが、いずれもベトナムの都市の「区」や「通り」の名前として多く使われています。むしろ、各都市の大通りの名前は、これらの英雄の名前で成り立っていると言っても過言ではありません。
日本国内の報道を見ていると、これまで何もトラブルがなかった二国間に突然南シナ海問題が発生したようにも見て取れますが、実はこのような背景がベトナムには存在しているのです。日本人にも大きな印象を残したベトナム戦争の話題ですら、ベトナム人にかかると「いや、それでもベトナムは中国と1000年単位で戦争をしていますから」と冗談半分で言うほどです。